昭和51年9月6日 朝の御理解
御理解第2節「先の世までも持ってゆかれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
先の世まで持って行かれるものは神徳以外にない。一昨日から昨日にかけ、呉地区の青年教師の方達が見えました。いうなら、合楽の信心を聞けるだけは聞いて行こうというのでしょう。十一時に駅(久留米駅)に行かにゃならんのに、十時までお話しを頂きたい、ということで、昨日は八時頃から応接間で待っておられたから、あちらへ参りましてから、もうお食事も何もする時間がない、惜しいと言うので、おにぎりを作らせて、おにぎりを頂きながらお話をするといったようなことでございました。
まあいろいろと、これは合楽でなければ聞けない話なのです、だいたい。先生の言われることをなるほど、なるほどと頂きゃ、なるほどが付くけれども、そんなことは聞いた事もなかった、といったことですから、やっぱり合楽はおかしい、と頂けば頂けるというわけです。それが合楽の信心を頂こう、でなく、合楽の信心を見に来ておられるのですから、まあ、あらゆる所を見せておけ、ということだろうと、…。
ですから実に赤裸々に、しかも歯に衣を着せずに、私のかく信じていることを、または神様から、こうお知らせを頂いておるということを聞いて頂いたんですけれども、その中に、先の世まで持って行かれる神徳というものは、先の世までも持って行かれるのだけれども、霊様に頼むとか願うとか言うけれど、霊様にはその働きはできないんだと。
という話をしたら一時は反発があったですけれども、よくよく話をしておると、だんだん分かってみえられたという感じがしました。
例えば若先主が申しておりました。これはある偉い宗教の勉強をする人が言った言葉の中に、現代の宗教というのはもうありとあらゆる人間が幸福になっていく事のための、いわば教えというものは、出尽くしてしまっているんだと…。問題はそれをいかに行ずるかにあるのだと言っておるということです。
ところが私の話を聞きよるとです、今まで素晴らしい宗教家が現われて、大宗教家が伝えておるけれども、今まで宗教家が言うたこともなかったことを私が言っているわけです。特にこの霊間係のことはどんな宗教家でも言っていない。霊に働きがないということ。霊は頼んだからというてそれに応えて働けるということは決してない。ただ親を大切にする、先祖を大切にするという私共、子孫の者の、そういう心掛けが神の気感に適うから、霊がいよいよ助かって行く事になり、また私共もまた助かって行く事になるんだと。
なら霊がいかに助かったからというて、孫が転んでおるから起してやろうとか、今あちらで難儀をしよるから、少し手伝いをしてやろうとか、今まであらゆる宗教が、そう説いてきたのである。
ところが合楽ではそういうことは絶対ないと言うのである。それでも御神徳はあの世に持って行けると言ってあるではないですか、と言う。なるほど御神徳はあの世に持って行かれますよ。持って行けるけど、持って行ってもこちらに送り返すことはできんのだ、と。
もちろんだからお徳を頂けば、子孫にも残り、子供達に残しておくことはできる。けど、あの世から送るということは絶対できない。けれども今言う、子孫の者が親先祖を大切にするということは、天地の心、天地の気感に適うから、大事にする者も助かり、またそれを大事にされた者も、いうなら潤うことになる。その持って行けるということである。 いうならこの世で人間がお金を持っておるようなものである。この世で持っておればお金は使えるけど、あの世ではお金は使われんのと同じである。
霊様もお徳は持って行かれるけれども、例えばあの世でお金を持っておるように、いうならば自由自在な、いうなら働きは、霊ながらの働きはできるけれども、それをこちらに送ってやる事はできないんだと。
ある偉い先生のところに、キリストの霊がやって来た。もうこの頃キリスト教は、死んだ宗教になっていけないから、金光大神の生きた宗教に依って救ってくれ、助けてくれと言うて、助けを求めに来た。
または、高橋富技という教祖のご時代に大変な女の先生、お徳を受けられた先生があった。高橋富枝先生の霊神様が、そこの先生のところにみえて、そして自分が生前になしえなかったことをどうぞあなたがして下さいと言ったようなことがある。
その昨日来た先生はそこで何日間か修行をされて、そういう話をいっぱい聞いてこられた。ところが、そういう話が全部私の話でくつがえってしまうわけです。
確かに、その先生が嘘を言っているとは思われない。高橋富枝先生がみえたとか、キリストが来られたとか、しかもそれには実証がある。
その先生もちっとは疑われた。キリストが頼みに来たというが、ほんなことじゃあるじゃろうかと。ところが一週間後、東京からある宣教師の方がみえて、こうこうだった。いわば裏付けがあった。私も以前はそういうことがありましたよ。キリストが天上から降りて来る。私が昇って行く。途中で会ったことがある。その時同じような意味のことを私も聞いた事があるのです。
それはもうほんとに、何というでしょうかね。神々しいというか、天上から降りて来る。私がまた昇って行く。
だからそういうことはどういうことかと言うと、天地の親神様のトリックだと私が言うのです。例えば、桂先生のお伝記を読ませて頂くと、石橋先生(久留米教会初代)のところに上半身を現わされた。石橋松次郎、いわゆるお弟子であるところの石橋先生に、御本部の御造営を頼む、というて頼まれた。
それで御造営のことを本気で取り組まれた、という事であります。ということがレッキとご伝記に載っております。
だからいかにも桂先生がみえたごとあるけれども、それは天地の親神様のトリックであって、それが見知らぬ誰れ誰れが行って頼んだって、石橋先生がその気になんなさらん。 師匠である桂松平先生がみえるから、ああ桂先主からのご依頼を受けたというて、その本気になられたのです。
だから桂先主は、天地の親神様から使われなさっただけである。トリックです。
その行き方でいくとです、今までの霊界通信とか、いろいろなことが全然根底からひっくり返ってしまうことになる。
私が今言いよることが、だからこういうことをあらゆる宗教家がいうならば説いてきたとか、あらゆる宗教家が説く事は説いてしもうた、と言うけれども、まだ説いてないところがあったと言わなければできません。そして私が言いよることが、絶対本当なことです。いうならば、霊様に頼むなんてことは、死人を舞台に引っ張って来て、サア踊れと言う事と同じだというのです。
けれど、その親を大事にする、先祖を大事にするというその心根が、天地の気感に適うから、霊もより助かることになり、その喜びがこちらに返って来るから、私共もおかげを受けられる。あの世にも持って行けれるという御神徳は、あの世で霊が自由なおかげを頂けるために、持って行かねばいけんということです。
あの世は暗黒です。だから、こちらから徳という光を持って行かねばどうにもしようのないところです。もうだから、光を持って行ってない霊というものは、うようよしてからどうにも…。
うようよしとるですよと言うたら、そのうようよしとる霊ちゃどういうことですか、というような質問。
うようよと言えば、この辺だけしか分からんでしょうね。うじ虫がうようよしとるでしょうが。あれと同じことです。
もう、光を持って行かん霊は、もうどうにも這いも立ちもできんごたる状態です。だから本当に光を持って行かなければ、あの世には行かれんのです。どうにもしようがないです。
まあそういうテレビなんかで、いろんな幽霊とか霊様を見るとかというようなことも、全部それは天地の親神様の、人間を幸せにせねばおかんという、…。
例えば幽霊なんかが迷うて出て来る。悪いことをしておるから、人間が悪い事をせんように、神様がわざわざ幽霊を使うて、悪いことをしよるとその幽霊から取りつかれるから、というような、天地の親神様のトリックです。
もう悪いことを人間がせんように、いや悪いことせんだけではない、よりよい幸になっていくために、そういう働きがあるのだ。
確かに霊の世界は暗黒であり、霊は働きができないものである。ただ、こちらから光を持って行った、徳を持って行った時、その霊だけはいうならば安心の霊、喜びの霊として、仏教的に言うならぼ、極楽に行けるということです。光を持って行かんのは、だから皆地獄に落ちんならんというのである。その地獄に落ちることを、例えば子供に親孝行な子供がおって、一生懸命信心して、信心の徳をこちらから送ってやることに依ってです、それで霊を助けることはできても、霊からこちらを助ける事はできないということ。
そういう意味でどうぞこの御理解二節にある、信心すれば誰れでもそのお徳を受けられるとおっしゃるのですから、そのお徳を受けるための信心をしとかねばいけないと言うこと。
今月は霊様月ですから、いうならたくさんの霊の助かりを、いろいろな手立て真心いっぱいで遺族の者がそれに奉仕をする、いわばそんな月ですから皆さん本当に先祖の霊の助かっていない、まだ苦しんでいる霊様達を少しでも金光大神の光に導き、浴させて、助かる手立て、助かる道を聞いてやる、造ってやる、造ってやる手立てになるのが霊祭です。 そこでです、おかげを受けるということでなくて、お徳を受けるということ。お徳を受ければ必ずおかげはついて来るのですから…。
昨日私はこういうことを頂いた。『ある人のお敗次をさせて頂いていました。そしたらくさ冠に田と書いてある。これは「苗」という字でしょう。信心をさせて貰う、信心の喜びというものは、これはいうならばお徳の苗です。
いいですか、今日皆さんに言うておる、徳を受けるということはね、信心のいうならばお徳を受ける苗が信心によるところの喜びです。
だからお参りをすると、まずは十人が十人、何とはなしに此処に二・三日お参りを続けておると、信心ちゃ有り難かものじゃあるというて信心の有り難い心が必ずわいてくるです。
涙の出るように有り難うなってくるです。だからその苗を育てて行く事なんですけれども、昨日私がお取次させて頂いた人がね、大変心の中に汚いものを持っておったらしいです。浅ましいです。汚いです。『その苗という字の横にね、けもの扁を頂いたです。
それこそ犬、畜生にも劣り果てたと言うでしょう、人間の…、ろくな奴じゃない奴のことを、…「もうあん奴ばかりはもう犬畜生にも劣り果てた」。そういう犬畜生にも劣り果てたような心がお互いの心の中に、厳密にいうとあるという事です。
そうするとどういうことになりますか。けもの扁にくさ冠に田と書くと、何というですか『猫』というでしょう。猫は不浄といわれる。不浄とは不成、成就しないということ。 おかげは、金光大神のおかげで、おかげ頂きましょう。けれども、お徳の苗を太らせないから、そのお徳の苗を頂きながら、いうなら犬畜生に劣るような心を、使ったり行なったりするならばです、切角のその喜びの種が、猫になってしまう。不成(不浄)になってしまう。
私は今日は皆さんに、ここのところだけを聞いて頂きたいのです。だからお徳を受ける人達は、限りなく美しくならせて頂くために精進をするより外にないです。そして今月の焦点であるところの、神様に喜んで頂けれるお役に立ちたい、お役に立ちたいという一念をいよいよつのらせて頂く事です。
不浄があっても、お役に立ちたい一念があるとです、その心に免じて神様がそれをかばって下さる。不浄があっても、不浄がないようにして下さる。これは泉尾の三宅先生の行き方から、私はそれを感じます。
自分のように浅ましいというか、自分の心の中、そんならもういよいよ自分の心に、時々歓びの苗を頂いても、それにけもの扁が付くようじゃから。
じゃなくてです、そこからです、いよいよお役に立ちたいという一念を燃やして行かなければならん。
燃やして行くならばです、神様がそれをかばうて下さって、御用に使うて下さる。昨日は壮年会でした。皆が一人一人、一ロずつ発表がありました。宮崎さんが発表されました。
三十一日の月末御礼信話会の時に、それこそ皆が感動する、自分も感動される、お役に立ちたいという一念のことを話しておられたがです、それから、二・三日たたせて頂いたら、その時より、もっと変わった意味あいにおいて、いうならもちっと高度になってきておられるのが感じられるという発表をなさいました。
素晴らしいでしょうが。ね、だんだん日がたつに従って、あげんお役に立ちたいと思いよったけれども、その心がです、だんだんのどもと過ぎれば熱さ忘れるといったようなことだけれども、宮崎さんの場合は、三日前に言ったお役に立ちたいより、今日ただ今私が思うておる、特に昨日の朝の御理解を頂いて、その思いがいよいよ深うなっていきましたというお話しをなさいました。
いうならば、くさ冠に田、苗、お徳を頂く苗が本当に成長して行きよるわけです。
そこで今まで汚いことを思うておった。汚いことをしておった心がです、信心の歓びをもってすると、楯いことやらはもうできんというより、そげな汚いことを言ううたりすることはもう馬鹿らしゅうて、されんごたる。馬鹿らしゅうなってくるわけです。
信心の歓びとは、そうゆう働きを持っておるです。信心の歓びがだんだん強うなって来るとね、その歓びの苗、いうならばお徳の苗がです、育てて行かなければ、今日言うあの世に持って行けません。また、この世に残しておけません。
昨日、久富繁雄さんが最後に発表しておりました。ほんな一口ですけれども、なかなか味のあるお話しでした。先日からお話しを頂いた中に、御本部に高橋正雄という大変にお徳の高い先生がおられた。
学院長をしておられる時に、朝お広前に出仕をなさる時鞄を持っておられた。ある学院生が、「先生その鞄をお持ち致しましょう」と言うた。そしたら高揚正雄先生が「いや軽いからいいよ」とおっしゃった。それからまたしばらく行きよんなさったら、また一人の学院生が「先生、その鞄を持たせて下さい」と言った学院生があった。そしたら、ハッというて渡されたというお話しです。味のある話でしょう。これは繁雄さんがお話しをされると、もっと味のある話でした。
ですから今月は、いよいよお役に立ちたいというスローガンのもとに合楽の信心が進められておる。
私はここんところに焦点を置きたい。ただ自分はもうお役に立ちよると思うておった。けれども、鞄を持って上げましょうとか、持ちましょうではいけないんだと。本当にお役に立ちたいならば、持たせて下さい、御用さして下さいということにならなければおかげにならん。
高橋正雄先生が持ちましょうと言う者には、いえ俺が持つと言わっしゃった。けど、持たせて下さいという学院生には、ああそうかというて持たせて下さった。それは自分も楽になるだけでなくてです、その学院生がおかげを頂くことを知っておられるから持たせられた。
御用はだから、「せにゃん」(せねばならん)でなくて「させて下さい」という願いを持たねばならんというお話しでした。
宮崎さんが、二・三日前にお役に立てさせて下さいと言うておられたその心が、それが三日後には、もっとそれが本当のものになって行きよると感ずると言っとられるように、その信心の歓びの苗というものが育って行かねばならん。だから育って行きよるかに見えてもです、例えば浅ましいことをしたり、汚い心を起こすとです、切角のくさ冠に田の、苗の横にけもの扁が付く。けもの扁が付くとそれは猫になるということである。猫になるという事は、それは不浄(不成)に終るということである。
信心さして頂く者は、どうでもおかげじゃなくて、信心を頂かねばならん。
昨日の御理解がよく分かるでしょう。そしてその信心の歓びをです、いよいよ徳の苗にして行かねばなりません。苗だけではではありません。徳の実が成る、徳の花が咲くようなおかげを頂いてはじめて、あの世に持って行けるということになるのですから、どうでもこうでも、その徳をあの世に持って行けれる信心を、身につけておかねばいけないと思います、どうぞ。